WEEKLY OCHIAIの"多様性をアップデートせよ"の回を見て、衝撃が走った。
「共感してもらえる前提」という言葉。
無意識に、自分の言葉は誰かに共感してもらえる、理解してもらえる、賛同してもらえるという前提で話をしている。
多様性とは、「異なる群が存在すること」だ。
人類の存続という大きな枠を考えても、様々な種・思想があって、それが時代の中で淘汰を繰り返し、「今」がある。
「意味」を求めるこの時代、僕らの目的は存続なのだろうか。
求められる「共感」には目を向けたい。する/しないは別として。
が、こと自分において「共感」を目的にしない。と決めた。
マルチカルチャーであるバンクーバーで感じた心地よさ。
色んな文化が混在する街、人と人との関わりは深くて浅い。
うまく言葉にできないのだけど、良い意味で「うちはうち、よそはよそ」だった。
無意識に、共感できるコト・モノばかりと自分の脳を繋げてしまう。
そうやって、自分でない自分が出来上がる。
正解なんてないのだから、「自分はこう」というポジションをとる。たとえそれが他人に共感されなくても良い。知を練って、ポジションを決める。そして、いつだって解体・再構築して良い。
二面性、裏表という言葉もあるが、そもそも一次元的にヒトは測れない。ヒトとは「球」だ。
これは、平野啓一郎さんの言う「分人」という考え方に結びついて、ビビッときたなあ。
自分の好きな分人の比率を高める生き方が自由であって、そんな多様性を認められる人が増えたら幸福だ。