気を使うという言葉は、本来相手を慮る意味合いで使われる言葉だと思う。
しかし、自分の気持ちを抑制したり言いたいことを言わなかったり、
そういった我慢するのと同じような使われ方をしているように感じる。
自身にベクトルが向いている気遣いは
本当に気遣いなのだろうか
そのようなことを考えているうちに、
自分を守るために優しい言葉をかけることに対して
全く意味がないと思うようになった。
指摘を始めとする厳しい言葉は
瞬間的には嫌われるかもしれない
しかし
例え嫌われ役を買ってでも
長期的に信頼されるような人間関係を築いていく方がいい
そう考えるようになってから
だめなものはだめ、と
チクチクしてすることに対する抵抗感が消えた。
二神は結構
相手の心の日々を読み取るのが得意だ
だから、自分の言動によって誰がどう思うかまでよくわかってしまう
察しが良い、と言う面では確かに強みではある
が、それ故に遠慮してしまうこともしばしばあるため、
そういった意味では短所とも言える。
では、なぜこのような心の変化があったのか説明する。
特別提携である英語指導吉田塾の吉田先生の指導を見させてもらった時に気づいたことがある。
それはチクチクと指摘している点だ。
集団授業では、画面越しの中学生から高校生まで
質問してチクチク
質問してチクチク
指摘していた
君英作文やってないもんね
〇〇君、それ全然違うよ
と平気で言う
ただしそこに嫌味なニュアンスはない。
さらっとジャブを打つように指摘をする。
生徒たちはそれに慣れているから指摘されるのは当たり前。
指摘されても嫌な気持ちにならないから間違えることを恐れない。
これはすごいと思った。
エイメイの先生はみんな
指摘して相手が凹んでしまったらどうしようとかすごく考える
俺はこの慣習について
良くもあり一方で悪習でもあると考えている。
だからこそ自己否定を込めて
自らが指摘する役を買って出ることによって
指摘が、当たり前の空間
間違えることが当たり前の空間を作っていきたいと考えるようになった
これは生徒たちだけではなく、同僚の先生に対しても同じだ。
本当の意味で気を使うためには、
指摘が当たり前の空間にしなくてはいけない。
まずは塾長である俺が率先して
チクチク指摘をしていく
たとえ瞬間的に嫌われ役になろうとも